フラット革命

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する」と「ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点」の間に出たこの本。ハードカバーのためちと後回しになっていた。

フラット革命

フラット革命

というか「フラット化する世界 [増補改訂版] (上)」と混同してた。

まあそれはそれとして。

メディアの「中の人」から見ると、どうしても「メディア」と「体制」あるいは「一般消費者」の対立の構図が出発点になるのだろうか。個人的にはネットの「あちら側」にいる自負もあり、ネットがリアル社会に及ぼす影響の大きさについて疑念を抱くつもりはさらさらない。しかし大多数の人々はそんな対立の構造とは無関係のところで相変わらずの日々を送っているのでは。テレビにしろ新聞にしろ、皆がみな鵜呑みにしているとは思えない。あるいは、鵜呑みにしたところでその個人とその周囲のリアルコミュニティにとっては、損も得もなくて、ぶっちゃけどうでもいい話なのでは。

とは言ってはみたが、実は4月から京都にきてからこういう考え方になったように思う。その理由の1つは、職場環境の変化。開発部門からスタッフ部門に変わったため、コミュニケーションの頻度も質も完全に別のものとなり、会社組織との関わり方が根本的に変わった。スタッフ部門というとルーチン業務がたくさんあってお役所仕事的なイメージかもしれないが、お役所的に仕事を片付ける必要があるが故にかえって密なコミュニケーションが必要だったりする。

考え方が変わった理由のもう1つは、家庭環境。ムスメが幼稚園に通うようになったのだが、この幼稚園は年中行事やらPTAやら非常にたくさんイベントがあり、半強制的に育児コミュニティに参加させられるわけだ。別にそれはそれでよいのだが、ここでも周囲との関わり方が劇的に変化した。この2つの変化をうけて感じるのは、メディアが崩壊だとかどうとか、そんな危機感とは無関係なひとだって結構いるんじゃないかな、ということだ。

確かに、3月までいた東京を思い起こしてみると、個人と社会との関わりが極めて希薄だったことは否めない。そういえば東京に8年いたのに、誰も引越の挨拶に来なかった。東京の場合は異常なまでの過密が諸悪の根源だとは思うが、産業構造の変化に対応しきれなかった地方都市でも同様に、社会と個人の関係性を維持できないという現象が起きているということなのかもしれない。

しかしそれは、極端な例にすぎないのではないだろうか。自ら関係性を築く可能性を否定してしまうのは、あまりに悲観的だ。

人間、いくらでも変われる。変わることを期待し、期待されることで、常にあらたな関係性を模索することが重要だと思う。